日常と非日常の狭間で

エッセイ、コラムなど

東京タンバリン「ただいま おかえり」

長尾純子さんが出るということで初めて、劇団の東京タンバリンを見る。

東京タンバリン

高井浩子の劇作を本人演出のもと、
上演することを目的に設立。 現代人の陰を日常会話の中にあぶりだしていく物語を「演劇でしかできない表現」にこだわった演出で上演している。

 

「ただいま おかえり」というタイトルの、母親とその子ども達の物語。

年を経るにつれて、親と子の力関係は変わっていく。育てたつもりの子どもから、いつのまにか心配されたり気を遣われたりしている母親。自覚する老い。しかしそれを認めたくない。いつまでも社会にも子どもにも頼られる存在でありたいのに、現実はそうならない。そういう心の揺さぶりを描写した物語だった。

基本的には結構重々しいストーリーだけれども、登場人物、舞台装置、全体の雰囲気は明るいのでその辺のバランスが好きだった。

ちなみに劇場の下北沢劇場Bはとても小さな舞台だが、木の可動式のパーツが配置されており、そのパーツを動かすことにより、場面の変化を伝えていた。普段小劇場の舞台はそれほど見ないけれども、いろんな工夫の仕方があるんだな、と勉強になった。

 

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スガダイローとJASON MORAN

4月15日東京草月ホール

草月ホールは初めて行ったけれども、ちょっと昭和な懐かしい雰囲気のところだった。

スガダイローが好きで行った。

最初はジェイソンモランがひとりでひき(ちょっと眠い)、

次はスガダイローがひとりで。

そして、二人のデュオ演奏。

 

演奏は期待通りめっちゃくちゃよかったんだけど、

スペシャルゲストが田中泯で。

二人のセッションに合わせてピアノの間で即興の舞踊をするんだけど、

なんか、、、二人の曲に合ってるのか合ってないのかが見ていて気になって、

多分合ってないんだけど、

そう思う私はまだ高度な芸術感性が薄いのかと自問し、

そのせいでせっかくの貴重なデュオ演奏に集中できない。

簡単にいうと気が散る。

 

田中泯は、単独で味わうものなんじゃないかな。

豪華さ出そうとして逆に美味しくなくなった料理のような、

なんだかもったいない公演でした。

 

あー。この日の音源売ってないかなあ。ほしい。

悲しみ

子供の頃同居していた祖父が亡くなった。

 

ついこの間、ちょうど今から一ヶ月前のGWに祖父に会っていた。祖母と同じ老人施設に入っていた祖父に。かなりボケてはいたけど背筋もピンとして健康そのもの、半年前までは父母と同居していた。しかし、熱が出て入院したせいか、あんまりはっきりと喋れなくなっていて。でも、家でとれた枇杷をむいて食べたり、出されたおやつも目にも留まらぬ速さでたべていた。入れ歯も自分ではめたり外したりしていた。

 

私はそのとき祖母がおやつを食べるのを手伝った。母は「昔は逆だったのにね」と後で言ったが、私は食べさせているときに同じことを思っていた。祖母は3年くらいずっと施設に入っている。ほとんど喋れなくて手足もうまく動かせないが、記憶はあるし話した内容に対して反応もある。そんな状態で、ずーっと一人で施設に入っていたが、いままでは数日に一度しか会えなかった祖父がやってきた。祖父と祖母はすごく仲がいい。老いても手をつないで歩く写真がいくつも残っている。施設に入ってからはいつも向かい合ってごはんを食べていたようで、祖母はきっと嬉しかったんじゃないだろうか。

 

その日、祖父はほとんど喋らなかったが、父に対しては、はっきり言葉を発した。

「うちに連れて帰ってくれ。」

かすれ声だったが心からの言葉だった。父は「もう少し良くなったら」と言っていたが、言われて辛かっただろう。

 

半月後。

転職して間もない私が同僚とランチをした後に本屋で立ち読みでもしようと外に出てふとスマホを見ると、兄からLINEがきていた。じいちゃんが危篤。朝9時にきてた。

いまは12時半。

 

すぐ電話すると、もう体力もなく夕方まで持つか、、とのこと。こういうときどうしたらいいか分からない。バス停を見ながら涙が出る。なぜ早く気づかなかった。気づいたとして、私どうしてた?とりあえず転職したてで大した仕事はしてないから会社は休める。オフィスに戻り、マネジャーに一言伝え、速攻で会社を出た。そして家に寄らずに飛行機をとりつつそのまま羽田行きのリムジンバスに乗った。

 

2時すぎの飛行機を手配し、空港で待っていたら2時ごろ兄から電話。ああ、亡くなったのかと思いつつ電話に出て、訃報を聞く。これで焦る必要はなくなった。飛行機の中では静かに激しく泣いていた。ああこの日が来たのか。しかも祖母より早く。

 

普段は空港に父が迎えに来てくれるけれど、この日は電車とタクシーで帰宅。家では親戚がおときの用意をしていた。何手伝ったらいい?と言ったら、まずじいちゃんに会ってきたら、と言われて、ハッとする。そりゃそうだ。

 

仏壇の前に祖父がいた。顔を触ると少し暖かい。この暖かさはなぜなんだろうと思っていたら、それはまだ生きていたときの体温だった。そのあと時間を置いて何度か触るたびに冷たくなった。少しでも生きていた時間と繋がれたから、急いで帰ってきてよかったと思った。

 

聞くと、ちょうど引き潮の時間に息を引き取ったらしい。危篤をきいた親戚も引き潮の時間を見たりしていたとのこと。夕方まで待って!と兄にはLINEしていたが、引き潮になら抵抗する気も起きない。

 

父と兄は葬儀屋と打ち合わせしており、母は親戚に用意してもらった精進な惣菜を皿に盛っていた。私は盛り付けを手伝う。昔はよく家で法事をしていて、祖母が大量の料理を作っていたのを覚えている。筑前煮、茶碗蒸し、巻き寿司。幼いわたしはあんまりそのメニュー好きじゃなかったけど。

 

法事といえば、小学生くらいのあるとき、法事の料理の盛り付けが面白そうでふいに「何か手伝うことある?」と聞いたら、予想外なほどに祖父母が喜んだ。普段全然家の仕事を手伝わないからなのだけど、自分にはそんな自覚もなく。周りのお手伝いのご近所さんの目も気にせず、大いに私を褒めたのだった。

 

亡くなった夜は慌ただしく、親戚が来て、祖父に手を合わせて、ちょっとごはんを食べて、帰る。95歳、さすがに皆落ち着いているが、泣きながら「にいちゃん、私よ、目開けてよ」と叫ぶ老いた妹の姿を見て、皆涙した。戦争も体験した、長い人生。想像できないほどたくさん思い出があるんだろう。

 

兄が、葬儀で流すスライドショー用の写真を祖父母の部屋から掘り出してくる。ついでに叔母や叔父の通信簿も。思い出が蘇り、話が盛り上がる。60年前のモノクロ写真は色以外はすごく鮮明で、表情や背景も綺麗にとれていて興味深い。祖父は若い頃はちょっと人相が違うが、彫が深く背も高く、かっこいい。

 

そういえば何代もシーマに乗っていて、保育園によく送り迎えしてもらっていた。田舎道は狭くてたまに側道に車輪が落ちたり動けなくなったりしていたのも、その車内の匂いごと覚えている。

 

翌日、納棺前に最後の入浴。晩年はお風呂に入るのが嫌いで、みんなで温泉行っても入らないことが多かったなあ、ボケてたから、オロナミンCの蓋を休憩室の畳のとこに投げたりしてたなあ。

 

家族がバタバタしていたので納棺師の方に促されて私が洗髪した。普通儀式的に洗うんだろうけど、なぜか本気で汚れをとろうと指の腹を使ってしっかりシャンプーしてしまった。でもきっと嬉しく思ってくれてるだろう。

 

納棺の時、じいちゃんがボケた後でもパリッと着こなしていたスーツと帽子、そして黄綬褒章のバッジを添えた。人生かけて取り組んだことの成果。私はこんなに素晴らしい祖父を持って幸せだ。

 

通夜、葬儀はめいっぱい良いプランにして、隣組や親戚の厚い支援もあって特に大きなトラブルもなく終わった。葬儀が終わるとすぐに火葬場。ああ、人の姿がなくなるというのはこういうことなのか、と言葉にできないなんとも惜しい気持ちになりながら、火葬中の装置に手を合わせる。とても天気の良い爽やかな空気の日だった。

 

骨拾いのとき火葬場の方が焼けた後のお骨を見ながら生前のその人について述べるが、年の割にしっかりと残っていると言っていた。頭蓋骨も足もしっかり残っている。その丈夫な骨を割りながら、骨壷いっぱいまで拾い集めて、入れた。

 

その後、初七日、精進落としをして、お骨は家に帰った。もう姿はない。ちなみに浄土真宗は死んだら即仏になるらしく、49日までさまよったりしない。

 

精進落としの時に小学校の子供会でお世話になっていた方に会ってちょっと立ち話をした。そのあと母がその人と話し込んでいて、あとで聞いたら、私がすごく明るくなっててびっくりした、と言っていたらしい。昔はおとなしくてほとんど喋らなくて感情も出さず、周りの人は結構心配していたらしい。確かにかなり人見知りだった。予期せず自分の過去にも触れる。

 

葬式あけて、まだ土日があったので家の仕事を手伝った。最終日、初盆に向けて部屋を片付けようという話になって、誰もいない祖父母の部屋を少し片付けようと思い部屋に入ろうとすると耳鳴りがした。部屋から遠ざかると直る。また近づくと鳴る。

 

これは、まだ早いというサインなのか。母も何か察したのか片付け嫌いの気分的なものなのか知らないが「そんなすぐ片付けるのも良くない」と言った。私も耳鳴りのことは言わずに「まだ片付けないほうがいい」と伝えた。ちなみに霊感とか全然ない。

 

帰る直前、施設にいる祖母に会いに行った。祖母は祖父の死を知らされていないし葬式も出ていない。半年前の叔父(息子)の死も知らされていない。泣きそうな顔で、びょういん、と口にする祖母に対して、母は「じいちゃん、まだ熱があって来られんのよ」と伝えた。ちょっと前まで向かいに座っていただけに余計寂しさが増すのだろうか。とても辛そうな顔をする。あと何ヶ月、あと何年、会えないことを悲しみながらここで過ごすのだろうか。涙が出そうになるのを必死でこらえて、祖母に昔の思い出を語りかけた。

 

自慢の祖父だったが、実は祖母との方が思い出も多く、祖父に先立たれた祖母を想うと涙が止まらない。どうか、これからも少しでも幸せな気持ちを持って、悲しみを忘れて、生きて欲しい。

ドタキャンという闇

ドタキャンというのは、断られた側としてはいかに自分がドタキャン可能な存在なのかと闇を抱えてしまう、面倒な事象である。

 

約束の時間に遅れるというのもまあ同じような存在なのだけど、まだ来てくれるだけいい。

 

一方で、自分もドタキャンをすることがあるが、そういう時は大抵自分が闇を抱えている時である。そしてドタキャンという行為が闇を可視化させさらなる闇を生み出してしまうのである。

 

ドタキャンしても闇、されても闇。

人生は闇だらけ。

バラバラな自分でいってみる2016師走

9月にとある趣味を引き上げてから、自分の身の処し方について考え始めた。何に関する話なのか。それは自分の経済を回していくための処し方の話である。

モヤモヤと考えては、フワリと忘れる日々。

32年生きてきて、いま33年目。比較的興味の幅が広くてあれもこれもしたいのでライトに手を出しすものの、どれにも落ち着かない。

一般的に自立して稼いでいくために「プロフェッショナルな強みを2つ持て」と言われている。私は何だろうか。ひとつはWebディレクション。これはまあ、50になって続けられるのかわからないけど、気力と体力さえあれば続けられなくはない。あと近いところでいうとコンテンツ企画編集。まあでもWebディレクションと似ている。もう一つ、それがない。

いろいろやりたいネタはあるんだけど、どれかに決めることができない。旅行、食、福祉、ものづくり。ああ。わたしとは。わたしは何によって憶えられたいのか。

 

しかし、やりたいことはやりたいことなのだ。どれも捨てたいわけではない。極めはしたいけれども、そういうことに迷って何も動かないのが一番自分の満足度が低くなる。ひとは誰しも初心者から始まる。一歩一歩。

ということで、いろいろやってみようと思う。